地元と繋がるということの難しさ

京都伏見醍醐を熱くする男かやまです。

昨日新たに挑戦するっていうブログを書き、たくさんの人に読んでもらい応援メッセージを頂き、すでにゴキゲンです。

 

SNSを通して繋がりに距離感は無くなった

ボクはよく言ってますがSNSで日本全国たくさんの人と繋がりました。その人たちの想いや価値観をたくさん聴き、ボクなりに受け止め、考えたボクなりの考えや価値観を相手に伝える事でその距離の壁を飛び越え、深く繋がることのできた人たちもたくさんいると思ってます。もちろん人対人の話ですから本当のところは分かりません。ボクが思うほど相手には伝わってなかったり、価値観のズレがあったり、どちらかが我慢して成り立ってる関係性もあるかもしれません。

ただ、世間が思ってる以上にSNSというツールは人と人の壁を取っ払ってくれるものだと思ってます。

伏見醍醐を熱くする男

 

気軽な分、よくわからない使い方をして世間を騒がせたり、必要以上に人を傷つけたりしてる人もたくさんいます。気をつけてはいるつもりですがボクの発信がそのような人たちと違うとは言い切れないし、実際誰かを傷つけたり、腹立たしく思われてることもあると思います。基本、文字だけですから余計に難しい。会って話してもすれ違うことがあるのに、文字だけのやり取りでは勘違いやすれ違いも多いと思います。

 

だとしてもSNSというツールは人の心の距離を近づけてくれるツールだと思います。実際にボクはたくさんの価値観の近しい人たちと出会うことができた。

 

地元との距離感を近づける難しさ

ボク自身の勝手な推測なのでなんの責任も取れない話ですが、SNSは距離があるからこそ近づけるものなのではないかと思ってます。

昔、ひろみゴーは歌いました。

「会えない時間が愛育てるのさ」と。

SNSで出会った人たちは距離がある分多くのことを想像させる。その想像させるってことがメチャクチャ大切なことで、人を育ててくれるものです。相手のことを思いやる想像をすることでますます相手のことを好きになり、相手もそうされることでますます好きになっていく。

 

近しい人にはすぐに答えを求めてしまう。もちろん大切な人なんで思いやりがないとは言わない。でも距離が近いと想像や考える時間がなくなってしまう。逆に聞きたいことがあったとしてもいつでも聞けるからいいかとなってしまう。

なんかやったこともない心理学みたいになってなんの責任も取れないのでこの辺で。

 

今、というよりずっと考えてるのはどうすれば近い距離にいる地元の人たちと遠くにいるSNSで仲良くなった人たちのように心の距離感を近づけられるかということ。

エスリード醍醐

 

地元と近づくこと。これは本当に難しい。特にボクは生まれも育ちも伏見醍醐エリアじゃ無い。はっきり言って完全によそ者ですし同級生なんかがいるわけでもないしその難しさは毎日痛感してます。だからこそ地元である伏見醍醐エリアに少しでも楽しいを見つけていきたい。

 

SNSは流れていくツールなので自分の想いや価値観をひたすらつぶやいても、見てくれる人は見るし、見たくない人は見ない。結果、見てくれる価値観の近い人たちが交流してくれる。言い方を悪く言えばある意味では選挙の街宣活動に近いのかもしれない。街宣活動は聞きたくない人も聞いてしまうし、話し手の一方通行なので厳密には全然違うんだけど、想いや価値観に触れやすいってっていう点が似てるように思う。ただ、ボクらが街宣活動するわけにもいかないし、迷惑にもなる。そもそもそれで集まってくるとも思えない。

また、物理的な距離が近いと壁は高くなるような気がする。グイグイ来られるのではないか、簡単に行けるからこそ行くって言いにくいなん当てこともあると思う。断りにくくなるくらいだったら最初から近づかないというのもあるでしょう。

 

ただ、地元でいくつかイベントなんかも開催したり、少しずつ知り合いも増えてきて感じるのは何か悶々としてる人たちは多いということ。何か始めたい、誰かと繋がりたい、そんな欲求は高いように思う。

ただ、世間に不信感が蔓延してしまって簡単に人を信じられない。何かと言っても今一歩踏み出せない。

偉そうに言うボクもそうだ。

だからボクはそういう不信感や不安を取っ払うような仕掛けをこれからも考え悩み続け、試しては失敗してまた試すを繰り返していきたい。人と人の繋がりを強制するつもりはないけど無いよりあったほうが絶対いいものだって信じてるので。

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