完璧を追い求める自分から求めない自分へ
京都伏見の醍醐エリアを熱くする男かやまです。
完璧ばっかり追い求めて毎日、自分の出来なさ具合になかなかやられてます。最近、思うのが完璧を追い求める事は大切だけど自分の身の程を知る事はもっと大切なんだってことです。
自分に完璧を追い求めると人にも求めてしまう
ボクは完璧を求めてしまう。できない自分に苛立ち、俺はこんなもんじゃないなんてエラそうに悔しがってます。…いや、悔しがってました。
さすがに人生42年も生きてると物わかりの悪いボクでも色々と自分の限界に気付いてきてます。
完璧・・・ああムリだとようやく気づき始めたわけです。
才能どうこうよりも完璧にできるようになるまでトコトン追い込んでやることができないんです。結局、どこかのタイミングで逃げてるんですね。
でもそれでいいんだと最近ようやく思い始めました。
自分が完璧を追い求めると、周りの人にもそれを求めるんです。
特に身近な家族なんかに。
そんなのムリだって思ってるからボクはできる限り家族には完璧を求めないようにしてた。でも心のどこかでそれを求めてるから自分の中でストレスになってる。なぜできないんだって。
でもさっきも言ったように、そもそも自分が完璧になんてできないわけです。結局完璧主義なんてもんはどこかで自己満足でしかないわけです。完璧を求めるうちは完璧にはなれない。大体、これだけ激変の時代で完璧ってなった時点でもう次の完璧は先にいってるし、これだけたくさんの価値観がある中で完璧なんてものはその価値観の数だけたくさんあるわけです。
それに気づけたら何だか心が軽くなった。そしたら人に優しくなれるような気がした。完璧主義者なんてものはその価値観を人に押し付けたいだけの独りよがりなのかもしれない。もちろん、それを人に押し付けず、自分だけの道を追い求める素晴らしい人もいるけど。
完璧を追い求める事をやめることで
ボクが完璧を追い求める事をやめて(まだ多少その要素はあるけど)、はっきり言えることは他人を否定しなくなった。まだ全部受け入れるとは言えないけど、何かしたいという人に対して出てくる第一声が「いいね」になった。
ボクはそんな自分がちょっと好きになった。
ボクは多分どっかで人に認めて欲しかったんだと思う。そのためには何より人を認めてあげる事。完璧を追い求める事をやめる事で自分の価値観は狭かったと気づき、いろんな価値観や人の事を肯定できるようになったんだと思う。
完璧を追い求める事をボクは否定しない。それはそれで素晴らしい事だから。でもボクは完璧になんてできないからそれを求めるのはやめます。それを逃げだっていう人もいると思う。むしろ以前のボクならそう思った。ただ、それをやめる事で得られたものの方が大きいと今は思えるからやめます。
わいざんっていう広島のアフロコンサルタントアーティストのこの動画を初めて見たときにまさしくボクと同じ気持ちを持ってる気がして(実際は違うかもしれないけど)この人がめちゃくちゃ気になった。最後に載せておきます。140秒ほどなんでちょっと見てください。