人と人が信じあえる世の中を

京都伏見の醍醐エリアを熱くする男かやまです。

と言いながら、正直たいして熱くは出来てません(かやま調べ)。

 

思い描いた通りにはいかない

ボクはよく「伏見醍醐を熱くする男」と自分で言ってます。友人である三重県のきゅうり農家であるしなやんとなすび農家のナスケンがつけてくれました。

しなやんとナスケンについてはこちらを読んでください。この時にふたりにつけてもらいました。

 

自分の中で色々と悶々としたものがあったのも事実で、やりたいと漠然と思いながらやりきれてない、そもそも何をやりたいのか自体もブレてた気がする。だからどこかで彼らの熱気に触れたかった。結果色々なものが晴れた。

あれから8か月ほど経ちましたがまだ悶々としてる自分がいます。やっぱりやりたいことがイマイチやれてない自分がいたり、ブレてる自分がいます。

そもそもボクはなぜ自分の街を熱くすると言ってるのか。

 

自分の近くの人ぐらい信じられる世の中がいい

そもそもはボクは不動産屋として、街の人たちに家を売ってます。

大前提として街が発展しないと家は売れません。そもそも伏見の醍醐というエリアは団地が多く、出入りの少ない街。高齢化が進み、街に入ってくる人たちも少なく、子どもも減っている為多くの小学校は一学年一クラスという所も多く、ジワジワと衰退している様をダイレクトに感じています。

 

そんな中、何かしないとという個人的なアセりがまずあります。

街の中を歩くと、歩行者も少なく、大通りがあるため交通量はあるがその割には醍醐に立ち寄る車は少ない。建物の中に入るとベンチなどに多くの高齢者の方々が休憩されてる。そんな中少しでも居場所を増やそうと考え始めました。でもボクの小さな声なんて届くわけもなく、また、そんなものは誰も求めていないただの自己満足ではないかと思う事もある。ただ、やっていくうちに思うんです。

自己満足でもいいんじゃないかって。

かやまの休憩室

自己満足の象徴「かやまの休憩室」

 

そもそも、スタートが「ボクの仕事に対する危機感」という自分勝手な理由なんです。

徐々に活動を拡げ、試していっても大した拡がりを得られない中で、地域活性なんて大それたことは自分にはできないんだろうという気持ちも正直あります。結果、思ったのは自分の見える範囲ぐらいは信じられる人であってほしいという気持ちでした。

 

人を信じられないのは人を知らないから

ボクは人に対してもともと疑い深い人でした。

かやまの休憩室

ハトが友達だってわけじゃないけど…

 

例えば何かいい事言われても腹の中に何か隠してるんじゃないかって思ってるところがあった。

でもよくよく考えるとただ単にそれはボクがその人の事を知らないだけだった。

ボクの友人に悪い人はいない。知人にも悪い人はいない。いや、厳密には思い浮かべるだけで3人だけ大嫌いって人はいる(笑)。でもその3人だって決して悪い人ではない。間違いなく世の中には本当に悪い人もいるんだと思う。でも少なくともボクの周りにはいない。

いい人っていう基準は人それぞれで、時と場合にもよる。ある部分では良くてもある部分は許せないってところもある。でも悪い人とは違う。

たぶん、ボクは必要以上に知らない人に対して臆病なだけだった。

かやまの休憩室

ハトは臆病でした…

 

今の世の中そんな人が多いんじゃないかと思ってます。今の時代は必要以上に人と繋がる事無く一日を終えることができる。また、繋がると言ってもSNSやLINEなんかがあれば実際に目と目を合わせる事無くある程度心を繋げることも可能になった。それはそれで便利な世の中だけど、リアルに繋がる事への高い壁みたいなものが出来たんだと思う。リアルに会えば面倒臭い事は増える。でもやっぱりその人を真に知るのは直接会う事だと思うし、真にその人を知る事で良いも悪いも受け入れられる。そうできることで信頼は生まれる。

 

話は戻るけど、ボクは自分の周りぐらい信じられる世の中にしたいという自己満足を追い求めたい。自分の周りって言うのは物理的な距離だけじゃなくて、自分と親しくしてる人っていう事。そんな人たちで埋めるためにボクはこれからも色んな人を知っていく機会をドンドン作っていこうと思う。

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